(3)原題 The Farthest Shore (1972)
時は、ずいぶんと経っていて、ゲドは大賢人となってロークの学院長となっていた。
そこに、モレドとセリアドの血をひくアレンという王子が自国エンラッドに異変が起きていると父の命をうけ大賢人に教えを請いにやってくる。
異変とは・・・魔法の呪文の力が衰え、魔法のことばも忘れられている。これまで魔法の力で守られていた事々がことごとく乱れ、病気がはやり収穫は乏しく人々は何かにとりつかれたように無気力になってしまっていると。
アレンからもち込まれた異変についてロークの長たちと会合を開くというゲド。
ゲド・・・様式の長には直々に話に行かれ、名付けの長には魔法で・・・・・・。
とまあこんな具合で第1章「ナナカマド」のお話で始まりますが、ああ・・・怪しい事象がもう始まってます。
第2章『ロークの長』では、案内役のカケがこれまでの歴史的なことを、また、まぼろしの森で開かれた議会では、話し合いがつかなくそれぞれ一晩よく考えて結論は翌日に持ち越された。長たち意見や振る舞いによって本書の根幹部分が丁寧に語られている。
持ち場の森から離れられない様式の長と、自分の塔のなかにいる名付けの長の二人を除く、守りの長・薬草の長・姿かえの長・風の長・呼び出しの長・詩の長・手わざの長、の7人と、大賢人であるゲドが翌朝もう一度話し合いをする。そこにアレンも呼ばれている。
それぞれの長たちの述べる意見や振る舞いが語られているのですが、慢心の心に冒されている者、権力を手に入れようと下心が見える者、嫉妬の火が心につく者、もうすでにここ学院の長たちの心にも邪なるものが見え隠れしています。
「わしらは深い源のところをようく気をつけて見なければならん。明るい日差しばかりを長い間楽しみすぎたからの。あの腕輪がひとつになったおかげで世の中、平和になり、わしらはその平和にひたりきって、ろくなこともせず、浅瀬ばかり漁をしてきた。今夜は深みをきわめなくては。」
様式の長とゲドがあの森でこのように話していたことは、ロークの学院の長たちの事でもあったのかな・・・。
事が起こる前に予感する(させる)グウィンさんの運びに何度ページをめくり直すことやら・・・。我ながら大笑!
しかし、しかし・・・・・・ 平和になったらなったで・・・ 人間とはどうしようもない動物だなぁ
まぼろしの森に住む、様式の長とゲドの会話のなかに頻繁に出てくる「クモ」。
そのクモから目をそらさずに見つめる様式の長、言葉ではなく振る舞いのなかで暗喩していたのだ。
また、様式の長は唯一こう言葉にした。
『いかなる人間も単なる偶然でロークの岸辺におりたつものではない。今度の知らせを持ってきたモレドの血をひく若者も決して例外ではない』
アレンは学院の長たちではなく、自分が大賢人のお伴として選ばれたことに嬉しくも光栄であるとも思ったが、自分の持てる力といえば、魔法を使えることではなくほとんどの人間ができることしかない、と戸惑う。
だが、ゲドは現在のアレンが、完成されたアレンであるとは考えていないという。
そなたが何者か、わしは知らん。もっとも、舟をあやつれるとは、ありがたいがな・・・・・・。まして、そなたが将来何になるかは、誰にもわからん。しかし、これだけはたしかだ。そなたがモレドとセリアドの子孫ということだけはな。
「自分はモレドではなく自分は自分でしかない」と言うアレン
「自分の血筋になんの誇りも感じないというのかな?」
「いえ、それは感じています。血筋ゆえ、今、王子としてあるのですから。わたくしには血筋に恥じない行動をとる責任があります。
「それだよ、わしのいいたかったのは。過去を否定することは、未来も否定することだ。人は自分で自分の運命を決めるわけにはいかない。受け入れるか、拒否するかのどちらかだ。ナナカマドは根のはり方が浅いと、実は結ばないものさ。
アレンの本名は “レバンネン”、 “レバンネン”とは “ナナカマド”のこと。
アレンが、アースシーを収める王として大成するためにはその根をしっかりとはることが必要、したがって、この旅はアレンにとって必然のものであるのだと、ゲドは観たのだ。
が、しかし、それを強要強制するのではなく、アレン自身が選択するものなのだと伝えている。
う~ん、三世でものを観る『仏法観』を物語のなかで伝えてくるんだな~
アースシー全体に何かの力が働いているのではないかと直観するゲドは、それは何かそしてそれをみつけて対峙するためにアレンを伴にした旅は、第三章ホートタウンから始まる。
「よくよく考えるんだぞ、アレン、大きな選択を迫られた時には。まだ若かった頃、わしは、ある人生とする人生のどちらかを選ばなければならなくなった。わしはマスがハエび飛びつくように、ぱっと後者に飛ぶついた。だが、わしらはなにをしても、その行為がつぎの行為を生み、それが、またつぎを生む。そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな時間が持てなくなる。ひとつの行動とつぎの行動との間の隙間のような、するということをやめて、ただ、あるという、それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者だろうと考える時間をね」
そのとおり!!!
「生きたいと思う、さらにその上に別の力が加わる、限りない富とか、絶対の安全とか、不死とか、そういうものを求めるようになったら、その時、人間の願望は欲望に変わるのだ。そして、もしも知識がその欲望と手を結んだら、その時こそ、邪なるものが立ちあがる。そうなると、この世の均衡はゆるぎ、破滅へと大きく傾いていくのだよ。」
なるほど~ @@
「わしら人間に打ち勝てるものは他にはないんだ。いや、世界にただひとつ、この邪なこころを持つ人間に対抗できるものがいる。それは、別のいまひとりの人間だ。恥を知る者にこそ、栄光はある。悪を為しうるわしらだけが、また、それに打ち勝つこともできるのだよ。」
「いいか、アレン、この世ではふたつのもの、相対立するふたつのものがひとつのものを作りあげているのだ。万物と影。光と闇。天の両極。そして、生は死から、死は生から生まれている。相対立しながら、両者はたがいを求め、たがいに命を与え合い、永遠によみがえりを続けていく。すべてがそうだ。りんごの花も、星の光も・・・・・・。生きてこそ死があり、死んでこそよみがえりもある。となると、死の訪れない生とは、いったいなんだ?どこまでも変わることなく、永遠に続く生とは?死をほかにして何がある?よみがえりのない死を他にして・・・・・・。
戦う相手は自分自身の心
それは、自分のなかの良心に問う、「おまえは、それで本当にいいのか?」と。
欲望に満ちたこころで行動しようとしたことではないのか?と・・・
死は、恐るべきものでも、忌み嫌うものではない。
自然なものであり、そのときが来れば受け入れればいいのである。
旅のエピソードをひとつ。
奴隷として売られるために奴隷船でオールを漕ぐアレンを助けにゲドが現れる。他の奴隷たちの枷や鎖も外してやるゲドに、何故、奴隷商人たちを鎖で繋がなかったのか?とアレンは聞く。
「(船に残った奴隷たちは)戦うなり、商売にまわすなり、そのへんは彼らの自由にまかせてきたのさ。こっちは奴隷商人じゃないんでな」
「だけど、あなたは彼らが悪い人間だと知っていて・・・・・・。」
「だから、こっちにもその仲間になれというのかい?やつらが悪いことをすれば、同じようにこちらも悪いことをしろというのかい?わしはやつらにかわってやつらの物事を決めてやることはしたくないし、やつらにもこちらのことには口出ししてほしくないね!」
「いいかね、アレン、何かをするということは、簡単に石ころでも拾って、投げて、あたるかそれるかして、それでおしまい、などと、そんな、若い者が考えるようなわけにはいかないんだ。石が拾い上げられれば、大地はそのぶん軽くなる。石を持った手はそれだけ重くなる。石が投げられれば星の運行はそれに応え、石がぶつかったり、落ちたりしたところでは、森羅万象、変化が起きる。何をしても、全体の均衡にかかわってくるんだ。一方、風も海も、水や大地や光の力も、それから、けものや緑の草木も、すべてこれらのなすことは首尾よく、正しく行われている。いっさいは均衡を崩さぬ範囲でな。放風や巨大なクジラの潜水に始まり、枯れ葉が舞い落ちたり、ブヨが飛んだりするのまで、こうしたものは何ひとつ全体の均衡を崩したりはしないんだ。ところが、わしらときたら、今いる世界や、人間同士たがいを支配する力を持っており、そうである限りわしらは、木の葉やクジラや風がその本性にのっとって、ごくごく自然にやっていることを、その気になって学ばなければならない。わしらはどうしたら均衡が保てるか、それを学ばなければならないのだよ。知性があるのなら、あるように行動しなければ。ほめたり、罰したり、そりゃ、このわしにその力がないわけではないが、しかし、そんなことをして人間の運命をいじりまわすなんて、このわしがいったい何者だと言うんだね。」
「だけど、それなら」若者は星をにらんで言った。「その均衡というのは、何もしないでいれば保たれるというのですか。必要なら、たとえその行為の結果のすべてを予測できなくても、人は踏みきってやってしまわなければならないのではありませんか?」
「心配するな。人間にとっては、何かすることのほうが何かしないでいることより、ずっと容易なんだ。わしらはいいことも悪いこともし続けるだろう。・・・・・・しかし、もしも昔のように、また王があらわれて、大賢人に意見を求め、このわしがその大賢人だったら、わしはこう言うつもりだ。『殿よ、何もなさいますな。そのほうが、正しいことであり、ほむべきことであり、立派なことでありますゆえ。何もなさいますな。そうすることがよきことと思われますゆえ。殿がなさらねばならぬこと、それしか道がないこと、ただそれだけをなさいますように。』・・・・・・」
自分のなかから湧き起こる慈悲のこころからの発露による行動は、時が来れば花が咲き、その花は他の花と比べる必要のない自然の営みのようなもの。
自然はいつも自然の法則にのっとってあるもの、均衡を狂わそうとするものは人間しかいない。
空飛ぶ竜の姿には、生命(いのち)あるものの栄光のすべてがあった。恐ろしく強い力と荒々しい野生、そして優雅な知性がその美しさをなしていた。竜は、もの言う力と古来の知恵とを具えた考える動物である。その飛翔の仕方にも、強力な意志を感じさせるある種の調和があった。
アレンの主観的竜の姿は、王としての完璧な姿とみているのだろうか?
竜、オーム・エンバーがゲドに助けを求めやってくる。
竜は、とってもいい奴だし!
と、しか・・・
とても書き切れない(大汗)
旅を続けるなかでゲドから教えてもらうこと、ゲドの振る舞いから学ぶこと、いつもは多くを語らないゲドが語るに落ちる姿もいい味出てます。なんたって思いっきり重要だし(笑)
失敗もしながらアレン自身が気がつくこと、アレン自身が考え行動できるようなり、しだいにアレンはゲドの目を通して観たかのように世界を見ることができるようになってくる。
旅の終盤、黄泉国では、アレンはゲドを支えゲドを導いていく。
ゲドの喜ぶ顔が目に浮かびます。
アレンことレバンネンが、ゲドとの旅のなかで、アースシーを収める王としての生き方を学び成長していく物語として読むと、そこには、人間として誇りを持って生きる生き方が見えてくる。
1巻での、オジオンがハイタカ(ゲド)を連れてロークへ向かう行程を彷彿させる。
当時のハイタカの心の動きを知るゲドには、アレンがゲドに抱く不信や不安なこころは手に取るようにわかっていたのだろう。
ゲドが尊敬し信頼するオジオンのように、レバンネンもゲドに対して同じ絆を結んだのだろう。
アレンの王位の戴冠式にゲドは出席することができたのであろうか・・・
それは、定かではないけれど、王となったアレンに伝えるべき事はすべてすでに伝えていたのだから。
レバンネンのなかには、この旅でゲドから学んだことがしっかりと刻まれていることであろう。
ロークの長たち、アレン、ゲド、旅の先々で出会うあらゆる人々、そして、竜たち
交わす言葉や振る舞いから伝わる心的な波は確実に私の心を捕らえ震わす。
グウィンさんの筆の力は凄い!
たくさんの示唆に富む壮大な物語にのめり込みます!
乱暴な感想?だけど・・・
魔法なんて要らないんじゃないかな((*´∀`*)
だって、ロークを旅立つときにアレンが身につけていたものは、ごくごく普通の人間ができることと代々伝わってきた剣だけだったのだから・・・・・・。
テナーに会いたい。オジオンさまにもお会いしたい・・・・・・。
つぶやくゲドのことばを聞いたとき涙がこぼれた。
長い長い過酷な旅、ほんとうにお疲れさまでした。
まだ、Ⅲ・・・
まだまだ続く・・・
次はどんなことが描かれるのか・・・
楽しみ♪
✿✿✿
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<(_ _ )>
by sakura8sakura
| 2017-07-10 02:18
| 読書