私は年をふるにつれ、汲めども尽きぬ仏典に、その心が日ごとに深まっていくような気がしてならない。
その仏典のなかに、” 浄明刀の説話 ”が出てくる。
これは釈尊が弟子に語ったものである。
------ある国の王子が、一人の貧しい男と親友として往き来していた。
貧しい男は、王子の持っている浄明刀に執着していた。
その後、王子は愛刀を手にして、どこともしれず出奔する。貧しい男は刀のことが忘れられず、毎晩のように「刀、刀」とうわごとを言っていた。不審に思った村人が、縄をうって王の前へ引いていく。男は、たしかに浄明刀という刀があった、と主張するのだが、王はとりあおうとはしない。刀について、周りの臣下の言うことも、いっこうに要領をえなかった。
やがて王が死に、そして出奔していた王子が帰ってきて、当然のことながら王位につく。そこで王は群臣にむかって「浄明刀を見たことがあるか」とただす。みなが「拝見したことがあります」と答えたので「どんな形をしていたか」と再びただすと---「ヒツジグサのようでした」「羊の角のような形でした」「火の塊のような真紅の物でした」「黒蛇のようでした」等々、まちまちで、どれも浄明刀の真実に触れていなかった。
この故事を引いて釈尊は説いた。
----人びとが” 我(が)あり ”というが、「我」とはいったい何か。「我」の実相の見えないことは、あたかも群臣に刀の相の見えないのと同じである。「我」というものの実相は、と問われると、ある者は「親指ほど」と言った。また、ある者は「米つぶぐらい」と答えた。また、ある者は「心の中で火のように燃えているもの」と言った。しかし、いずれも実相ではなく、真実の「我」の仏性のことをいい、たとえば浄明刀のようなものである。
この譬喩は、仏性という真実の「我」を教えたものであるが、私たちの生活や人生のあり方を示唆するものとして、わたしにはまことに興味深い。
人間というものは、思い込んだ” 固定観念 ”からなかなか抜けきれないようだ。すべて「親指」や「米つぶ」ほどの自分の寸法に合わせようとする。合わないとなると無理にも合わせようとして、そこからさまざまな角突き合いが始まる。そうした確執が、だれもが内に秘めている” その人ならでは ”の可能性を殺してしまうケースが、あまりに多い。私はとくに子育ての最中にあるお母さん方は、わが子の健全な成長のためにも、このことに十分留意していただきたいと思う。
ある賢聖のことばに「修羅は身長(みのたけ)八万四千由旬・四大海の水も膝にすぎず」とある。修羅とは阿修羅ともいい、もともと仏宝用語で、戦闘を好む鬼神の名であった。それが転じて他より劣ることに耐えられず、つねに勝他の念に執着している状態、また他を軽んじ自分のみを大切にするエゴに陥っている状態をいう。その修羅という命のおごり高ぶる様は、八万四千由旬(古代インドの距離の単位)もの長大さであり、大海の水も膝までしかとどかぬほどである。
増長した修羅の命のとりこになった人にとっては、わが子や他人の存在など、実にちっぽけなものでしかない。だから、一切を自分の支配下におき、意のままに動かそうとする。八万四千由旬といっても、その実、自分自身が「親指」や「米つぶ」大のものになってしまっていることを知らずに、気づかずにいるというのである。小は家庭内のいざこざから、大は戦争にいたるまで、人間同士の争いは、みなこの修羅の命の仕業であるといってよい。
いわゆる” きめつけ ”や” 押しつけ "の類も同じ根から発しているのではなかろうか。小さな我をわが子に押しつけ、未来性豊かな若い芽をつみとってしまう愚だけは避けたい。そして、もっと広々として大きい心を親自身も開いていきたいものだ。農夫が作物を育てるには、肥料を やり、雑草を除き、太陽光線を存分に与える。作物の生長を眺める彼の目は、自然の理を知った人の、忍耐強い慈しみの目である。
子らの成長にも、同じ道理があると思う。子らは可能性の宝庫である。上から、自分の枠を押し付けるのではなく、農夫の温かい目のように、横から、子らの自立していく姿に慈愛のまなざしを送り、応援していっていただきたい。人間は物ではない。どんなに鋳型にはめこもうとしても、必ずはみ出してしまう部分が出てくる。
まことに人間の可能性というものは、どんなところに潜んでいるか分からない。
つれづれ随想より 抜粋
前回の「槻の木の弓」でもありましたが、
「子どもたちは、困難を乗り越えていく力を、本来的に持っているものだ。」
彼らの可能性を信じ祈り、見守ることを続けていくことですね。
自分が来た道を振り返ってみると・・・
平凡な人生であっても、いくつかの分岐点というものがありました。誰しも通ってきた通過点でしょう。
私は、その分岐点で出す答えは自分で決めてきました。
頭ごなしに否定された時もありましたが、最終的には自分の意思を通してきました。
それで、反省することもありましたが。それはそれで、自分が納得できることなのでOKです!
少しこうすれば良かったかなと思うことは、もう少し話し合えることができればもっと良かったかなと^^;
今、親の立場になっても、その時の気持ちは忘れていないので^^
その時は、「自分の人生をしっかりと生きていきなさい」と伝えたいと思ってます。
放任ではありません^^
ちゃんと見守っていますよ!
良い縁で結ばれ繋がっていけることを、日々祈っております。
2015年、君たちにとって良き一年であることを!!
お気づきの点がございましたら
sakura8sakura@excite.co.jp へお願いします。
<(_ _)>
by sakura8sakura
| 2015-01-01 01:10
| 説話