「涅槃経」に雪山童子の物語が出てくる。釈尊の過去世の仏道修行の厳しさを述べたものである。
雪山(インドの北部のヒマラヤ山脈の古名)に、雪山童子と呼ばれる若い求道者がいた。金銀財宝などには目もくれず、ひたすら法を求めて修業を続けていた。それどころか、法のためには、いざとなったら妻子はおろか、自分の生命さえも投げ出す決意を固めている。
しかし帝釈天は、そんな雪山童子の善心に若干の疑問を持つ。そして童子の修業を試すために、一策を案ずる。自ら殺人鬼の羅刹に姿を変えて、童子の目の前に立ち現われるのである。心になにも恐れるもののない童子は、静かに羅刹と相対する。しばらくして羅刹は、「諸行は無常なり、これ消滅の法なり」と、かつて仏の説いた偈を半分だけ述べる。これを聞き、喜んだ童子は、後の半分を聞きたいと請い願う。羅刹の望みに応じて、その代償として自分の肉体をも与えることを約束し、後の半偈に耳を澄ませる。「消滅を滅し已って、寂滅を楽と為す」
聞き終えた童子は、その偈を人びとに遺すために所々に書きつけてから、高い木に登り、樹上から身を投げる。そのとき羅刹は、帝釈天の姿にもどり、雪山童子の体を受けとめ、求道心の心の固さを賞でたという。
雪山童子が求め抜いたもの“八風”という嵐に揺るがぬ大樹のような心と、それを支える厳たる法の存在である。ほかでもない「賢人」の生き方といえるだろう。
日蓮大聖人は「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり」と仰せになり、縁に紛動されぬまことの人間の生き方を示されている。
“八風”に侵されぬ人生と “八風”に翻弄されゆく人生と__。
仏法とは若干ニュアンスを異にするが、優れた文学作品には、両者の激しく劇的な撃ち合いを描いたものが少なくない。私は、とくに若年の頃、そうした作品にいくつも巡りあい、心を育む糧としたものであった。
なかでも、ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』での主人公ジャン・ヴァルジャンとジャヴェル警視との執念と執念の戦い、生死をかけての葛藤は、私の思い出に刻まれ、炎として消えることはない。
善を志して生きゆくジャン・ヴァルジャンを、蛇のように執念深く追い回し、陥れるジャヴェルの所業を、少年時代の私は、ことさら憎らしく思ったものだ。しかし、愛と寛容に満ちたジャン・ヴァルジャンの堅固な善心は、凍てついた大地のごとく残酷にして偏狭なジャヴェルの心をも、ついに溶かしたのであった。
これは、人間の善性の偉大なる勝利であった。ジャヴェルの心の中には、ポッカリと、底知れぬ空洞ができたにちがいない。“八風”に執する人が、翻弄されゆく己れ自身をはじめて目の当たりにしたときの、むなしさと恐ろしさ。
「一つの珍事が、一つの革命が、一つの破壊が、彼の心の底に起こったのである」と、ユゴーはほとばしる言と句で描写した。
「彼の最大の苦悶は、確実なものがなくなったことであった。彼は自分が根こそぎにされたのを感じた。(中略)彼は暗黒のうちに、いまだ知らなかった道徳の太陽が恐ろしく上りゆくのを見た。それは彼をおびえさせ、彼を眩惑させた。鷲の目を持つことを強いられた梟であった」
「道徳の太陽」の眩しさに、たまらずジャヴェルは自殺し、果てる。
つれづれ随想より抜粋
”八風“に侵されないで… 縁に紛動されず生きなさいと。
ただ、それはとても難しいことですよね^^;
人には「心」というものがあるから。
その「心」は、縁するものによって動かされるもので… ^^;
「レ・ミゼラブル」でいえば「道徳の太陽」に恥じない生き方。
私の中では、法華経の心。その心にしたがって物事を判断していく。
先生は、人間誰しもたとえ意識しなくても、奥底では自身の“芯”となるべき確たる充足感を求めているものだ。と教えてくれています。
また、人の心ほど、とらえにくいものはない。それであって、人間の心を動かすのはまた、人間の心であると。
「縁」といっても 善縁となるもの悪縁となるものと、世法でいえばありますが、立場が変わればそれはまた逆になることだってあるのです。
ジャン・ヴァルジャンのように…
人間の持つ仏性を信じて、誠実に接していくことかな…?
目指すところは高く、歩みは目の前の一歩から^^
『レ・ミゼラブル』まだ読んでないのです(汗)
今頃ですが… 読書の大切さを改めて感じながら、少しずつ読んでいっています。
この本、『つれづれ随想』もそうですが、先生の著作や対談 また、スピーチなどで世界の名作などを取り上げて、内容や著者の思想、生き方など、様々な角度から見る目を教えてくださっています。
引用されている部分だけでわかるように、かみ砕いて?示してくださっていますが。自分が読んで感じるということが本当は大事なことであると痛感している今日この頃です。
戸田先生も池田先生も、どんなに忙しくても、読書をする暇を作りなさいと教えてくれています。良書を読みなさいと。牧口先生も最期のときまで、カント哲学を学んでいたそうです。
確固たる自分を作るために一生勉強との思いで、超・マイペースですが歩んでいます。
人間の真実の心を覆い隠すそうした爽雑物を、仏法では、”八風“と説いている。利、衰、毀、誉、称、譏、苦、楽の八つを言う。そのうち利、衰、誉、称、楽を四順といい、人びとはこれを欲し、これに執着する。反対に、衰、毀、譏、苦を四違といい、人びとの忌み嫌うところとされている。
お気づきの点がございましたら
sakura8sakura@excite.co.jp へ、よろしくお願いします。
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by sakura8sakura
| 2015-11-21 16:23
| 説話