ガンジーは、その八十年になんなんとする生涯を、インドの独立のために捧げ尽くした ” 戦士 ”であった。そして、その実践は、人間としてやむにやまれぬ発露からの放射であり、不屈の戦いであったといってよい。
ガンジーは ” 戦士 ”であった。武器こそ手にしなかったが、否、武器を手にしなかったがゆえに、真実の戦いを戦い抜いた ” 戦士 ” であった。といってよい。
イギリス植民地主義の圧政に対する彼の怒りは、たんなる修羅の怒りではなく、愛と信念に支えられた深層からの怒りといえよう。だから彼は、銃を手にせず、知恵をめぐらしたのである。
たとえば塩の進軍。
酷暑のインド、とくに灼熱の太陽のもとで働く農民にとって、塩は一日も欠かすことはできない。ところがイギリス政府は、この生活必需品に対しても、重い税金をかけていた。ガンジーは立ち上がる。「塩税法を撤廃しなければ、海岸を行進し政府の専売となっている塩を手作りするであろう。」と、断固として宣言した。
この請願が聞き入れられなかったため、彼は、修道場の七十九人を引き連れ、はるか南のボンベイ州ダンディ海岸に向けて行進を開始する。沿道の農民は、ほこりっぽい道に水をまき、木の葉を散らし、旗を振って一行を歓迎。村の首脳は政府の仕事を放棄し、多くの村人が行進に参加。このニュースが全世界を駆けるなか、二十四日間にわたる進軍を終えたガンジーは、ダンディ海岸に立ち、手作りで塩を作る。
そのひとかたまりの塩は、インド独立へのシンボルとしてまたたく間に語り伝えられ、停滞していた独立運動は、再び大きなうねりで盛り上がっていったという。
「非暴力」というガンジーの運動は、けっして戦うことを放擲した ” 無抵抗 ” ではない。彼は運動を進めていくうえでの暴力を排しただけで、むしろ生涯にわたって圧政に抵抗し、それと戦い続けた。
どんな苦境も彼の信念を挫折させ、絶望の淵へ追いやることはできなかったといってよい。彼の進軍は、狂信的なヒンズー教徒の凶弾に倒れるまで、やむことのない、不退の戦いであった。
トルストイは、私が若いときからもっとも好きな作家であり、今も変わらぬ愛読者の一人である。
「人間」というものを見つめつづけ、心理探求に生涯取り組んだ彼の生き方が、作品の中のそれぞれの登場人物から、伝わってくるようで、どの作品もじつに興味深いのである。
クトゥゾフ将軍__彼の代表作である『戦争と平和』に登場する老将軍である。
1812年、ナポレオンひきいるフランス軍が、日の出の勢いで、ロシアに迫った。この戦いで有名なのが「ボロディノの戦い」である。並みいるロシアの将軍一同が敗戦とあきらめていたにもかかわらず、クトゥゾフだけが「ボロディノは勝つ」といいきった。
戦況は一見、救いがたい劣勢のようにみえた。しかし、クトゥゾフは周囲の批判にもじっと耐え、ついにはナポレオン軍を自らの陣地にひきこみ、厳寒の中に巻きこんで、とうとう最後には、戦況を逆転するのである。
不利な条件に目を奪われることなく、いかなる至難の中であっても「最後は必ず勝つ」と信じて進んだクトゥゾフの強靭さに、私は、おのれが決めた信念の道に生きる人間の輝きをみる思いがしたのである。
次元は異なるが、日蓮大聖人の御一生もまた、戦いに次ぐ戦いの連続であられた。「大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」「賢者はよろこび愚者は退く」などの御遺文に見られるように、不退のご生涯であられた。
権力によって、今まさに首を斬られようとするときも、ときの最高権力者に向かって「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら只今日本国の柱をたをす」と師子吼され、一歩も退こうとされなかった。
私は、日蓮大聖人が身をもって示された不退の戦いのなかに、大乗仏教の精神の精髄が脈打っていると信じている。それはまた、人間として尊極の生き方であるといってよい。
ひとたび決めたこの道を、生涯貫く人生ほど尊いものはない。時流に合わせて右顧左眄する人生の末路はみじめなものであろう。その轍を踏まないためには、常の戦いを忘れてはなるまい。まことに、真実の人生とは不退の戦いの異名である。
つれづれ随想より抜粋
今回は、説話をひいてという形ではなく、信念を持って生きる姿を、ガンジー、トルストイ そして、日蓮大聖人の振る舞いからおしえてくださっています。
ガンジーは、仏のやむにやまれぬ慈悲からの発露の行動。トルストイは、「最後は必ず勝つ」と信じて進んだ。と物語に描くことで人間は、内からの声に従って行動することの強さを。
「十界の生命」はすべての人間の中にあります。それゆえに、ひとりひとりが仏の境涯へと高めていくことが平和へと向かっていけるのだと思います。自分の胸中にある仏界を開き、負けない自分で進んでいく。それは「南無妙法蓮華経」と唱えることによって叶えられるのです。
もちろん、言葉で伝えられることは話していくことができますが、このことを疑うことなく信じ切り「南無妙法蓮華経」と唱え、まず、自らが感じることが分かりやすいと思います。「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」自分らしく生ききることによって輝くのです。その姿を見てもらうこと、振る舞いによって「法華経の心」を伝えていきたいです。
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by sakura8sakura
| 2015-12-18 15:51
| 説話