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”妙音” の調べ
法華経には多くの菩薩が登場するが、なかに妙音という菩薩がいる。
この菩薩は、浄光荘厳国(じょうこうそんごんこく)という国に住み、その人徳と三昧(心を一所に定めて動じないこと)はまことに優れていたといわれている。なお求道心も厚く、釈尊の説法を聞くためには、八万四千もの眷属を引き連れて、はるばるやって来る。
そのとき妙音を称えるように、大地は六種に振動し、天からは七宝の蓮華が降ってきて、妙(たえ)なる音楽が鳴り渡った、という。
のちに、中国の天台大師は、法華経を釈した「法華文句(ほっけもんぐ)という書物で「妙なる音声をもって、あまねく十方に吼え、此経を弘宣す、故に妙音と名(なづ)く」と述べている。

ところで、法華経のサンスクリットの原本には、妙音菩薩は「ガドガダ」と表記されている。これは本来、”どもる””聞きづらい”の意義である。
それがなぜ、妙なる天楽の調べとともに登場する菩薩の名とされているのであろうか。

この妙音菩薩は、過去世に、伎楽を仏に供養し、その功徳によって菩薩と生じたという。「ガドガダ」から妙音の人へ―― もちろん経典にはその間の説明はない。しかし、あくまで一つの推測ではあるが、私の心には、そこに一個の人間革命の人生のドラマがあったと投影するのである。
宿命と苦しき戦いに生き抜き、やがて凱歌の人生の完成をしあげた妙音菩薩の、周囲の世界には、つねに人びとの心をなごませ、人びとを鼓舞してやまない、音楽や歌声に包まれていった。この事実から、たれ人の生命の胸中にも、人生の生々輾転(てんてん)の妙なる音律はあるといってよい。挫折の友には勇気と希望を与えゆく、自らが名指揮者のタクトの人生であっていただきたい。

人々の中で、歌(音楽)というものがどういう効果をもたらすのか。を語られていました。
古人も「いきとしいけるもの いずれかうたをよまざるける」と語りかけているように、歌はいつも人間の心と”二人三脚”で、幾歳月も歩み続けてきた。
幸田露伴の随筆「震は亨る」(大正12年、関東大震災の直後に綴った時事雑感)の話をひいて
彼は、そのなかで、今度のような大天災に見舞われたのは、人心の荒廃、慢心と、どこか関係があるのではないかと、警鐘を鳴らしている。  歌の例えが、古くてよく分からないのですが・・・(汗)
謂わば、歌詞音律の弱哀傷を思い起こすような歌が流行ったときに、天災が起こっている。と露伴はづづっているのだそうです。

池田先生は、「科学一点張り」でも「科学慢侮」でもないが、こうした見方は、社会現象を理解するうえで一理あると思う。
「郷に入って其謡を聞けば其郷知る可である」と---
今日の科学は、これを”こじつけ”と一笑に付すかもしれない。しかし、かならずしもそうは言い切れないのではないかと思う。
心の姿である歌や声色の哀楽は、どこか深いところで、社会や自然の動向と繋がっているのではなかろうか。
少なくとも、こうは言えよう。
人間にしろ、組織にしろ、伸びていくところには、それ相応に生命力の横溢する兆しがうかがえるものだ。輝く瞳、豊かな表情、力強い声の響き、明るく希望に満ちた歌声--彼(女)の、彼(女)らの発散する、はつらつたる息吹からは、今後の成長を確信させる鼓動が、静かに確実に聞こえてくるかのようだ。
私は経験に照らして、そう信じている。

つれづれ随想より 一部抜粋



心と歌の関係、私も、いろいろな音楽を聴きますが その時の気持ちで、聞く曲を選ぶことが多いですね。
沈んでいる時にかえって、元気あるハイテンポな曲も選ぶこともありますが・・・
それは、ま、元気だして行こう!との気持ちの表れだと ^^
他者に対しては、例えば、声ですね。TELで聞いた時の声。なんとなくでも相手の状態を察する時があります。
直接、お会いでき会話した時は、もちろん、表情もわかりますし・・・ね。 
少しの変化にも、気づける自分でありたいと思います。^^
そういう、感受性を大切にしていきたいですね。

お題目をあげて、生命力をあげて! 「こんにちは!」「こんばんは!」と、元気よい声で笑顔で! あなたに今日会えて、話せて良かったと思っていただけるよう。 日々、頑張ります! 自然をも動かせるくらい?^^;

心のアンテナをピンっと張って 友人知人を一人一人、思い浮かべながら健康を、幸福を祈っております♪


11月1日 2面 「名誉会長と共に 新時代を開く40」に「妙音菩薩」のことがありましたので 一部抜粋、追記します^^

法華経に登場する妙音菩薩は無量百千の功徳と威徳に溢れて光っている。それは、過去世において、仏に十万種の音楽、そして八万四千の七宝の鉢を供養したからであると説かれる。

日蓮大聖人は、この「八万四千」とは「八万四千の塵労(じんろう)なり」と仰せだ(御書775P)
無数の塵のような煩悩・労苦が、妙法を唱えれば「八万四千の法門」となる。全部が智慧となる。
何があっても負けないで、朗らかに、勇気の舞を舞いゆくのだ。不屈の劇を創るのだ。

「妙法以上の智慧は、断じてない。この智慧あるかぎり、人類は多くの危機を避けて、やがて絢爛たる平和と文化を開くことができるだろう。このために、ただ一つ人類に残された道------広宣流布の必要があるのです。」と戸田先生。

自他共に「歓喜の中の大歓喜」の生命を漲らせ、美しい平和の芸術を創造していきたい。



お気づきの点がございましたら sakura8sakura@excite.co.jp へ、よろしくお願いします。 <(_ _ )>




by sakura8sakura | 2014-10-31 00:41 | 説話
心の鏡の ”明昧”(みょうまい)

日蓮大聖人の御遺文集に、次のような一節がある。
「我が心の鏡と仏の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向かって我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は表に向かって我が性の理を見たまえり故に明と無明とはその体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依って明昧の差別あり」

「我が心の鏡」とは無明(昧)、すなわち迷いである。「仏の心の鏡」とは明、悟りである。迷いの心、悟りの心といっても、けっして別々のものではなく、一つ心の裏と表にほかならない。心が裏返しになっていたならば、物事の真実は見抜けないであろう。
相手の立場を思いやる余裕や優しさも生まれまい。

子育てでいえば、自分自身の感情や好みや見栄というエゴで曇った目でしか、愛するわが子が見えなくなってしまうからである。
ちょうど鏡の裏面になにも映らないように、裏返しの心の鏡には、独立した人格としての夫や子どもの姿が映し出されることはない。夫や子どもへの愛情も、自分自身の一部に注がれてしまっているのであろう自己愛にすぎないからである。

お母さん方には、ずいぶん厳しい注文になってしまった。しかし、夫の立場も同じことである。申し上げたいことは、互いの非をならす前に、まずわが心の鏡の”明昧”に思いをめぐらすべきではないか、ということに尽きる。それには、なにが一番大切なのであろうか。
「結局、夫婦で共通の目標をもつことではないでしょうか。それもマイホーム的なものではなく、なにかの形で、社会に貢献していけるような

つれづれ随想より 一部抜粋

【明昧の差別(みょうまいのしゃべつ)】
明と昧の違いのこと。明は明るいことで法性、仏界に譬え、昧は暗いの意で無明、九界の凡夫に譬えること。


人の心、というものは、微妙なものです。
縁に触れることによって、心が移ろいやすくなったり、
言い換えれば いくらでも、よき方向にも変えていける。
互いに理解し合い、また許しあう、人間としての度量を持っていたいですね。
それには、自分の心を鍛えるという努力を忘れてはいけないといわれています。
人と接し、様々な経験を積んでいく中で、養われていくものかと・・・

「何様にして磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へてたてまつるを是をみがくとは云うなり。」
常に、自分の心をみつめ確認しながら、一回り大きく成長していきたいなと思います。
人、として ^^

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by sakura8sakura | 2014-10-23 02:09 | 説話
ハッピーロード 第3章 秋 Autumu
忘れるところでした。 (汗)
秋が終わる前に気づいてよかった。^^

「ハッピーロード 希望の光 歓びの詩」
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信じ抜く強さーーーー
思春期の子と一緒に成長を

爛漫と 勝利の花の にぎやかさ 朝日に光り 秋風たのしく

「秋桜」と書くコスモスは、猛暑も嵐も越えて、じっと力を蓄えます。
そして、秋の訪れとともに、コスモス(宇宙)という誇り高い名前にふさわしい花を咲かせていきます。
秋の野を彩る花々は、その一年を懸命に生き抜いてきた命の勝利の証と、私には見えます。
それぞれに健気であり、美しい。他と比べる必要など、まったく、ありません。
松尾芭蕉は「草いろいろ おのおの花の 手柄かな」と詠みました。味わい深い、秋の一句です。
早咲きの花もあれば、遅咲きの花もある。羨むこともなければ、焦ることもない。たとえ、ゆっくりでも、咲くべき時に、自分らしく思う存分、咲き切っていけば、それが勝利の花です。その命の”手柄”です。
人も同じです。どの子にも、おのおのに「花の手柄」を立てる力があります。それを伸び伸びと発揮できるよう、信じ、見守り、支えていくことが、私たち大人の使命であり、責任ではないでしょうか。

母子して 栄光の道 嵐越え

子どもにとって、母とは、自らの生命を誕生させてくれ、どんな時も守り、包んでくれる、「コスモス(宇宙)」にも等しい存在です。

『動物記』の作者として知られる博物学者シートンも、いつも太陽のような笑顔で明るく照らしてくれた母を、人生の原点としました。
「母は決して不平をいわず、ぐちもこぼさず、いつでも明るく、へこたれることがなかった」
「母は、いつも笑顔と巧みな冗談で家じゅうのものの気持ちの持ちかたに明るさを取り戻させるのだった」-------平凡にして偉大な母でした。
青春時代に体調を崩し、失意のうちに家のもどったシートンに、母は、愛と喜びを持って迎え入れ、聡明に誉めたたえました。この母の真心に応えんと、シートン青年は再び立ち上がり「生きる喜びを求めよ」を信条とし、もっとも苦しい時こそ、根性の力を奮い起して、人生の勝利の記録を一つ一つ打ち立てていったのです。

残念ながら、時代はますます息苦しく窮屈になっている感があります。一度や二度の失敗で若い芽が押しつぶされるようなことがあっては絶対になりません。だからこそ、いかなる時も、子どもを大らかに受け止める母たちの愛情が、いやまして大事になるでありましょう。

楽しい一生を 親子でおくりゆくために その永久の土台を 今日もつくることだ

「思春期」と呼ばれる十代頃の年代は、人生にあって、最も目覚ましい成長と変化の時です。身体もぐんぐん大きくなり、知性や人格においても、いよいよ一個の人間として自立していくため、不安や悩みと戦う段階に入ります。
しかも現代社会は、インターネットが急速に発達し、役立つものから有害なものまで、子どもたちは膨大な情報にさらされています。人権を蹂躙し、人間の尊厳を踏みにじる悪口罵詈も渦巻いている。顔も本名も知らない他人と簡単に連絡が取れてしまう。多感な子どもを育てる親たちには、不安な悪縁が多すぎる世の中です。
思春期の反抗の意味は、高まりゆく生命のエネルギーをぶつけ、親の愛情を体当たりで試している側面があります。また、大人たちの価値観を問い直しながら、自らの一生の基盤となる価値観を必死で模索し、築き上げていく過程でもあります。

母も子も この世 明るく 強くあれ

思春期とは、人生の四季にあって、決して避けられない、その上、深い意味のある季節です。
何よりも大切なのは、表面の姿に一喜一憂せず、どこまでも、わが子を信じ抜く「強さ」でしょう。
どんな時でも、母は「信じているよ」と言い切ってあげることが、子どもの揺るぎない支えになります。
適切に助言はしても、命令や指示ではなく、本人に決めさせてあげる配慮も求められます。

一日一日を大切に! 一日一日を朗らかに! 一日一日を自分らしく!

子どもの良いところを見つけ、大いに誉める。他人と比べるのではなく、その子の努力していることを認めていくことを心がけたいものです。脚光を浴びることが偉いのではない。地味であっても、苦労を積み重ねて何かをやり遂げる。どんな小さなことでもよい。人のためになることをする。その喜びと誇りを持たせてあげたい。それは、親自身の生き方と一体の挑戦です。

素晴らしき 親子で歩めや 幸福道

コスモスの花は凛と咲き誇りながら、次の開花に備えます。今年も勝ち、来年も勝つために!
コスモスをこよなく愛する東北の母たちも、復興へ向かって勇気の種を蒔いておられます。
その母の心を受け継いで、子どもたちが勝利の花また花を爛漫と咲かせゆくことを、祈る日々です。
ハッピーロードより 一部抜粋  




我が家の子どもたちは、思春期は過ぎてしまってますが。(たぶん^^;)、
子どもと接するという意味では、今でも大変に参考になります。
「信じているよ」と言い切ってあげる。 
私も、娘にかけたことがある言葉です。^^
結局、自分が考えて、自分が出した答えで進まなければ、本人に後悔が残るのではと思います。
「信じ、見守り、支えていく」結構な忍耐力も必要ですね^^;
私の、父母もそんな思いを持ちながら 見守ってくれていたのでしょう・・・



by sakura8sakura | 2014-10-19 00:57 | 平和
溺れ死んだ猿の群
昨今の大学生のなかに、「学生無気力症」という病気が急増していることについて、日本精神衛生会の方が話されたことをもとにお話されました。(”無気力” ”無関心” “無責任” ”無感動”をさして「四無主義」といわれる。)

昔、釈尊が霊鷲山で説法した。
----ある海辺に鬱蒼たる樹林が茂り、五百頭ほどの猿が住んでいた。
あるとき、雪山のような形をした高い白波が、海面に現れた。 猿たちは大いに喜び、「あの山頂に登って東西に遊ぶのも、また楽しいではないか」と口々に語り合う。
そのうちの一頭が、すばやく白波のしぶきの上に飛び乗り、たちまち水底に没し去ってしまう。岸で見ていた他の猿たちは、彼が姿を見せないのは、沫山(まつせん)の中がよほど居心地がよいのだろうと思い、争って波のなかへおどりこみ、次々に溺死してしまったという。
「雑譬喩経」という経典に説かれている物語である。
釈尊は述べている「この海とは生死海である」と。ここでいう生死とは、苦しみというほどの意味である。海面に躍る白波は華やかで、快楽そのものと映るかもしれない。しかし、それは蜃気楼のようなものだ。幻に目を奪われているかぎり、待っているのは苦しみのみである。砂漠で蜃気楼を追うような、空しい人生であってはならない。真実の幸福を求めて、まず足もとの”一歩”を大切にせよ-----こう釈尊は説くのである。 

愚かな猿の轍(てつ)を踏むな、と釈尊の戒めをかみしめたい。教育の原点は知識の豊富さや、ましてや学歴の取得などにあるのではない。それのみで、精神が空白状態であれば”白波”に幻惑され、翻弄されゆく姿であり、人生の溺死へと通じていく。
大事なことは、人間として、自分らしき確たる地歩を築くことである。
子供には”幻”を教えるのではなく、人間の真実を教えることである。平凡ななかに、人生の尊さがあることを、知らしめることである。友情、忍耐、勇気、情緒、感謝といった心の豊かさを啓発していかなければならない。心の貧しさほど、青年にとって不幸はないからである。----まさしく、人間教育こそ、教育の原点であるといってよい。

三田誠広氏の『僕って何』という作品がある。この「僕って何」の問いかけに答えるものは、何よりも親の姿であろう、と私は思う。言葉ではなく、姿である。最初、まなざしは自分というより、親や社会に向いている。再び自分に向くのは、大人たちの鏡を通してであろう。立派な親の生き方に接して育った子供は、必ず「僕って何」の壁を乗りこえて、美事に成長していくに違いない。

(つれづれ随想より抜粋)



ここでいう、「親」とは、自分を自分と認めてくれる存在なのであると。
自分がどういう存在なのか、確認するために必要である。
そして、社会という中でどう生きるのか・・・

「親」としては、
自身の歩んできた人生から学んだことを、子供に伝えていくこと。
そのうえで、何があっても子供の可能性を信じて見守っていく。という親心。

言葉だけでは、ナカナカ伝えきれない^^;
私が、生きる姿で感じ取ってもらえるとうれしいな^^
子どもといっても、三者三様 考え方も違うから・・・
それそれが、親なり、社会の先輩たちを見て 
冷静に判断できる力を養っていけるよう、
見守り、声を掛け続けることも大切ですね。


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by sakura8sakura | 2014-10-15 10:22 | 説話
小鳥の知恵
ラバという鳥がいる。
といっても、馬とロバとの間の子のそれではなく、小鳥である。
パーリー語辞典によれば、鶉(うずら)のこととでている。
そのラバがあるとき---と釈尊は弟子に語る---空中で鷹に捕らえられた。
嘆いていうには「家を出て遊んでいたために、こんな災難にあった。今はどうしようもない」。
鷹はそこで「お前の家はどこにあるのだ」。
ラバは応じて「田のあぜの中にある。そこにいればだれも手がつけられない」と言った。
自分の力を過信した鷹はラバを放し、家へ帰してやる。するとラバは、再びあぜの上に出てきて、闘志満々の構えである。
小癪な!怒り狂った鷹は、翼に力をいよいよこめて、一直線に襲いかかる。
ところが、ラバはすばやく家の中へ隠れてしまう。力あまった鷹は、わが身を堅い土の上に打ちつけ、その場で息絶えてしまうのである。
ラバは歌う。「鷹は力をもってやってきた。わたしには自分の家がある。鷹は怒りにまかせて、その身を砕いて死んでしまった。
わたしは自分の家に依って、敵を亡ぼしたのだ。・・・わたしの知恵で哀れな鷹は亡びた」と。

---「雑阿含経」(ぞうあごんきょう)に説かれている説話である。
仏教のなかでは、小乗教という比較的低い部類に属する経典なのだが、なかなか鋭い教訓をはらんでいると思う。

日々の現実の生活と、それにもまして不況と戦っている、若きお母さん方の姿には、なにかこの知恵者・ラバのイメージを、ほうふつとさせているような気がしてならない。自分を知る賢明さは、そこから幸福(さち)の芽が出る。ここに庶民の、人間としての、権力者よりも、学者よりも、財界人よりも偉大な力の光が輝いている。
力において鷹に太刀打ちできないことを、ラバは十分知っている。だから、知恵で戦う。たしかに、限られた収入内での工夫など、不況の大波にもまれる小舟のオールにも似た、ささやかな抵抗に見えるかもしれない。
人間界の”鷹”は、少々ずる賢くできているため、あぜの上から”土の家”を突き崩したりする場合もあるだろう。しかし、彼女らはけっしてへこたれない。時流の荒波の中にあって、ときに愚かな為政者に怒りの声を発しつつも、足元に知恵をめぐらしつづける。
明日を見つめて、明るくしぶとく生きぬき、じっと時を待っている。
彼女らこそ、あのラバのように、最後に勝利に歌を高らかに歌うであろうと、私は信じている。また、そうした時代を、なんとしても創り出していかなければならないと、つよく念願もしている。


(つれづれ随想より抜粋)


なんとも・・・
女性の逞しさ(笑)
生活の中で得た、知恵をもって生きる。
あら、ここでも まず自分を知る賢明さをと・・・
先生は、賢明な女性の姿を、このラバに譬えられたのですね^^
そして、明るくしぶとく生きぬき、じっと時を待つ。
まだまだ、ですね。 ^^;
境涯を広げて悠々と生きていきたいですね。


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<(_ _)>



by sakura8sakura | 2014-10-07 10:36 | 説話
  

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