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トルストイ『人はなんで生きるか』に心が洗われた!

トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)

トルストイ/岩波書店

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『人はなんで生きるか』

ひとりの貧しい靴屋、セミョーン。
礼拝堂のそばに素っ裸の男を見つけるのですが、そこまでのセミョーンの言動を見ているとまぁ、どうしようもない人だなぁ…と思っていたのだけど。
この素っ裸の男(ミハイル)と関わるととんでもないことになるかもしれない…でも…助けるべきかどうか…と迷うんですね。
だけど、セミョーンの良心がとがめてきた。

「おまえはいったいどうしたというのだ、セミョーン?」と彼は自分に言うのだった。「ひとが災難になって死にかけているのに、おまえはこわがって、見て見ぬふりをしようとしている。それともおまえは、それほどたいした金持ちにでもなったというのか?」もっているものをとられるのがそんなにこわいのか?おい、セミョーン、よくねえだぞ!」セミョーンは踵をかえして、その男の方へ戻って行った。

このセミョーンの心、自分の中の善と悪の心の葛藤が短いんだけど絶妙に表現されている。だって、私の心も同じように動いたんだもん(*´∀`*)



セミョーンの心には愛が、憐憫の心、慈愛が働いたのです。
損得(この場面の前に描かれてるんですけどね)ではない、そのときの自分にあった出来るだけのことをするんですね。
ミハイルを連れて帰ると案の定、妻は怒る。そんなマトリョーナを諭してこう言う。
「マトリョーナ、おまえの心にゃ、神さまはいなされねえのかい?!」

もう一度ミハイルを見たマトリョーナの怒りは消え、マトリョーナの心にも憐憫の心、慈愛が働いたのだろう。



「さて、若い衆――おなかはパンをほしがるし、裸のからだは着物をほしがる。人間は働いて食わなきゃなんねぇ。おまえさん何か仕事ができるかね?」

セミョーンはミハイルに自分の靴屋の仕事を教えた。
ここでは、勤労することで生きることを教えているのだと思いました。

セミョーンの靴屋で働きながら人間社会で生きていく6年間のなかで、ミハイルは神さまに与えられた問いの答えを体験することが出来たんですね。


【人間のなかにあるもののなんであるかを知るだろう】
【人間に与えられていないものはなんであるかを知るだろう】
【ひとはなんで生きるものであるかを知るだろう】



最後にミハイルがなぜこの世におちて来たのかが語られます。


3つの神さまのお言葉の答えを知るためであり、セミョーンとマトリョーナの姿に、傲慢な大男の客の姿に、血縁のない双子の子を慈しみ育てた婦人の姿に出逢い知ることができた。そして、この三つ目の答えを身を以て知ったミハエル(三度の微笑み)は神さまにゆるされたことを知ったんですね。

「すべてのひとはは自分のことを考える心だけでなく、愛によって生きているのだと言うことを知りました」

あらすじを書きたいほど素晴らしいお話です!






『火を粗末にすると――消せなくなる』

火とは、心
 不信の心、疑心、悪心

「遅らせてはなんねえ、火は初めのうちに消さなきゃいけねえ、燃えあがってしまったら、どうすることもできねえでな」

「相手の良心が、自分で自分を責めるだって」





『愛のあるところに神あり』

いかなる時も、慈悲心をもって誠実であれ!
情けは人のためならず、ですよ。





『ろうそく』
「目には目を、歯には歯を」と言えることあるを汝ら聞けり。されど汝らに告ぐ――悪しき者に抵抗うな。(マタイ伝第五章第三十八、三十九節)

「もし悪を滅ぼすのに悪をもってしてもいいのなら、神さまがわしらにそういう掟をお与え下されただが、そうではねえから、べつの仕方が示されてあるだで。おまえが悪をもって悪を滅ぼそうとすれば、それはおまえに返ってくるだよ。人を殺すないいことでねえ!血が魂にはねかかるだ。人を殺せば、自分の魂が血だらけになるだ。おまえは悪人を殺したつもりでも、――悪を滅ぼしたつもりでも、そのじつおまえは、それよりもっとわるい悪を、自分のうちへ引き込むことになるだ。災難には負けているがいい。そのうちには災難がおまえに負けるようになるよ」





『二老人』
金持ちの百姓の老人と金持ちではない老人の二人が、エルサレムへの神詣の旅へ出かける。

金持ちではない百姓の老人エリセイは、かき集めてこさえた旅費を手に。
旅の途中、喉の渇きのため水を一杯請うために一軒の家に立ち寄った。そこに住むひとは貧しさのあまり今にも死にたえていく様相で、エリセイは幾日か滞在し自分のお金(旅費)と労力を使ってこの一家を助けた。が、残っている旅費がこれからの旅に足らないことを知り、エルサレムへいくことをあきらめ、残り金を老婆に渡し家の者たちに何も告げずにそっと帰途についた。

もう一人の金持ちの百姓の老人エフィームは、しばらくエリセイを待っていたが先へと進みエルサレムへ着くことが出来た。
そこで、一ばん目につく、一ばんありがたい場所に立って、両手をひろげ、何か自分の上にあるものでも見ているように、上のほうをじっと見ているエリセイ(にみえる)の姿見た。

要するに、エルサレムへの旅を断念したが、かの一家を慈悲をもって救ったエリセイは、普通に神詣に参拝した以上の善を尽くしたということなのでしょう。神の御心を自身の身を以て振る舞うことが信仰心のあるべき姿だとトルストイは言っているのだと思う。



『イワン・イリッチの死』を読んで以来の、トルストイの作品。
大作が多くて(汗)なかなか読めなかったのだけど、題名は重々しいけど民話集・短編集ということで、比較的軽い気持ちで^^;手に取ったが、なんとなんと!素晴らしい作品でした。(偉そうですみません^^;)

複雑な人間関係があるではなし、単純という言葉を使うには申し訳ないのですが… シンプル?かつ明瞭
それでいて、脳裏に、まざまざと映像が浮かび、心が動かされ、心が洗われる感動がありました。
なんだろうね、人間にとって一番大切なことを、おじいちゃんに諭され教えられるように心に響いてきます。
昔話とかの教訓のようでもあるけど、それよりももっと現実的なストーリーがよりわかりやすいのかもしれませんね。ロシア正教の神という概念での譚ですが、そこには拘らず、人類の心の内にあるものという共通なものを感じれば何の隔たりもないと思います。

愛・慈悲・思いやり 素敵なものが内在する人間の可能性が未来を明るくするのだと思います。






*****


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by sakura8sakura | 2017-09-22 14:55 | 読書
そうだなぁ…重なり合っているもんね。
梨木作品、次はなにを読もうか……と。

「これ、いいですよ!」と、教えてくれた作品。


エンジェルの文字が三つ並ぶ題名をじっと見る。
パステルカラーがやさしい
ゆるやかに曲がった一本の道が続く
現実の生活の上に薄紙を重ねたような絵の表紙。
三層かなぁ…
あ、でも 
重なり合う部分の層の濃度が違う…


エンジェル・エンジェル・エンジェル (新潮文庫)

梨木 香歩/新潮社

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読み終えて…

コウコの世界とばあちゃんの世界…ん、さわちゃんの世界
時空を超えて重なり合う部分
表面に見える意識と内面に潜む無意識
自然なものと不自然なもの
善きものを求める人間の魂
慈悲心
やっぱり、心を整えるものは自然なんだと思った。


コウコの世界と幼き日のばあちゃん(さわちゃん)の世界が交互に語られる。

山本公子さんに憧れつつ嫉妬心が芽生える
魂を悪魔にうった我が心、その悪な心を責めるさわこ。

コウコは、この水槽の世界の創造主であると云ったばあちゃん。
この水槽は自分以外の生命とのバランスをとっている感じがするのだろうと結論づけるコウコ。



 ずっと後になって、私は、本心、というものが、それを言った当初はそう思えなくても、実はだんだんそれに近づいていくこともあるのだと思った。むしろ、そのときにはわからなかった本心が、ひょこっと顔を出す、ということがあるのかもしれない。
 それを考えると、時間というものは不思議だと思う。その時点ではわからずにいた言動が、後になって全体を振り返ってみると、あらかじめ見事にコーディネイトされた一つのテーマに統一されているように見えるのだ。


うーーーーん スゴイ!
自分の内面を観つつ、衝動的に起こる言動が本心(真実)であるということ。それは不自然に起こすことではなく自然に起こること。時間も空間も超えて自然の法則に沿っているということだと思った。

ネオンテトラに攻撃を続けるエンゼルフィッシュ。
その光景を観るさわちゃんの心に映っていたのは、山本さんへの嫉妬をぶつける自分の姿だったのではなかろうか…
だけど、それも自然なものなのにね。



コウコが見た変な夢
エンゼルが激しくテトラを攻撃している。まるで水槽の世界から抹殺しようとしているかのように。ふっと、向きをかえたエンゼルの顔は、なんとママだった。そして必死で攻撃に耐えているテトラはさわちゃんの顔をしていた。
 まさか、と思っていると、今度はその立場が逆転して、悪魔のようなエンゼルがさわちゃんになっていた。
 魚は反転するたびに顔が変わった。
 こんどは私自身がエンゼルになっている。そして、攻撃の激しい衝動を向けている相手は、私自身の顔をしているエンゼルだった。お互いに泣きそうな顔をしている。攻撃をしながらも必死でブレーキペダルを探そうとしている。そんなものがどこについているというのだろう。でも、探そうとしているからにはどこかについているのだろうか……。

とても真理をとらえているところだと思った。
対するものは立場が変われば入れ替わる。
攻撃しながらも必死でブレーキペダルを探している、まさに、さわちゃんの姿であり、コウコの姿である。
探そうとしているのならどこかにあるのだろうとの思考は、慈悲の心があれば光はある、そんな人間の心の働きであるのだと思う。


死んだ最後の一匹となったエンゼルフィッシュを埋めるところで、ひとりでは動けないはずのさわちゃんが這いずりながら庭に出て、庭の石でエンゼルの死骸に何度も打ち付けるシーンには涙した。

 「おまえなんか……おまえなんか……この。蝙蝠。悪魔。仲間殺し。卑怯者」、と…さわちゃん。


 もういいよ、と自分で発した言葉が、私の体のあちこちで跳ね返り、響き渡る。
 もういいよ、もういいよ、もういいよ……。
 跳ね返った言葉が、自分自身の闇に吸い取られていく。

 「……私が、悪かったねぇ」
 ついぞ優しい言葉をかけてやらなかったエンゼルに、私はしみじみ謝った。 コウコ。



対鏡をみて自身を識る。

慈悲心が現れ赦されたのだ。




御使ひまた水晶のごとく透徹れる生命の水の河を我に見せたり。この河は神と子羊との御座より出でて都の大路の真中を流る。  ヨハネの黙示録 22・1

お話の始まる前、冒頭に載せられていた。





「音」に敏感な梨木さん。
山本公子さんの「公子」きみこ、を、こうこ→コウちゃんと親しい人は呼ぶ。
コウコの呼び名である「コウちゃん」と重なる。

機械的な水槽のモーター音によって呼び顕わされるように覚醒する「さわちゃん」
話の流れの中で、コウコの家に引き取られてきた「ばあちゃん」が「さわちゃん」と呼ばれた瞬間、ドキッとした!そして、これまでに交互に語られてきたものが一遍に繋がった。

水槽の魚たちがいなくなり、モーター音がしなくなってさわちゃんの覚醒はなくなり
あのとき、自分を赦すことができて、ばあちゃん(さわちゃん)はこの世を去った。
始まりから最後まで、すべてが必要だった。コウコにとってもさわちゃんにとっても……
伯父さんの都合で、ばあちゃんがコウコの家へ来ることになったことも、不安定な心を整えるのには熱帯魚の飼育をすることで癒やされるのではないかと直観したことも、意図せず、夜のトイレを引き受けるようになったことも、繋がるすべてが偶然ではなく必然であったこと。

梨木さんの描くストーリーは、幾層も重なる出来事が自然に重なり一つのテーマを描き出している。連綿と続く一族の歴史の一端を描きながら、その奥にもっと続くものをも連想させる…… そんな風に読み終えた。










観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向かう時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり (観心の本尊抄 御書240p)






✿✿✿

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<(_ _ )>




by sakura8sakura | 2017-09-10 11:29 | 読書
”病子”への愛情
この春も、目に見えぬ時の流れの中で、冬から春となり、日本中のあちこちに、桜の匂いがたちこめ、鮮やかな天空に、絵のごとく美しい。この花の四月も、またたくまに過ぎ去っていくにちがいない。
春宵の詩情豊かな桜も、春の嵐から、身を守ろうと、可憐な姿を必死にうちふるわせているにちがいない。この桜は美事のいえば美事、はかないといえばあまりにもはかない。「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」---
業平の歌が、いたく胸にしみる、きょうこのごろである。
時移り、人の情けはいかに変わろうとも、花を眺め、花の下で一夜の歓びを尽くしゆかんとする風情は、昔も今も変わらない。
しかし、いつもながら私たちの詩情の心を悲しませるのは、宴のあとの落花狼藉である。一夜明けると、桜の花の上野の山に、幾台ものトラックが出動しても間に合わず、係りの人が途方にくれているというニュースを耳にすると、なにか寒風が胸をよぎる思いである。「子供の猫可愛がりと観光地の紙クズ」という、辛辣な評を聞いたことがあるが、どこか一本、箍のゆるんだようなところが、感じられてならない。

桜花の季節は、入学・卒業のシーズンでもある。先日こんな記事を読んだ。某大学入学式に馳せ参ずる親子の風景である。
----途中雨が降ってきた。ある父親は、着ていたレインコートを、自分より背の高い息子にはおらせ、カメラを手に愛息の側を濡れながら小走りに走っている。息子は平然と、父親のコートを着て・・・。
ある母子。母は雨の中を、大きな荷物を持ち、黒の羽織を着て、子供に遅れまいと必死でついていく。息子は、母のものであろう、女物のカサを自分だけさして、大またに・・・。
執筆者は、そこには「親子の愛情の美しさなどみじんも感じられなかった」と結んでいる。

たしかに、わが子は可愛い。晴れの入学式を迎える親の気持ちも、十分わかるつもりだ。しかし、そうであればあるほど、大きな愛情で包んでやらなければならないと思う。子供はこれから、学校や社会の中で、立派な大人になっていくための素養を身につけていくのである。そのさい、もっとも重要なことは、甘えや依存心から自立心へと向けていくことであろう。親の愛情は、側面からでも、その自立の心の涵養を応援してあげるものでなくてはなるまい。

釈尊が亡くなる寸前に説いた経典に、「涅槃経」というのがある。釈尊が入滅するとき、もっとも心配でならなかったのは、阿闍世王のことであった。阿闍世王は、当時のマカダ国の王。父を殺し母をも害そうとし、釈迦教団を弾圧しつづけた悪逆の人であった。その結果、身に悪瘡を現じて、瀕死の苦しみを味わう。釈尊は行く末を憂えて深く祈る。そして、不治と思われた王の病も、たちまちに癒えたという。そんなこととはつゆ知らぬ王が、怪訝に思っているのに対して、臣下で名医の評判の高かった耆婆が、次のようにさとす。
「たとえば、7人の子があったとする。そのうち一人が病気になったとすれば、父母の子供への愛情は同じであるが、なかでも病子が一番気になる。それと同様に、仏の慈悲というものは、すべての人に平等であるが、そのなかでも、もっとも罪深い者にひとえに注がれるものである」---これを聞いた阿闍世王は、、改俊の情厚く、のちの仏典結集のために大活躍している。

このエピソードには、仏法で説く慈悲の真髄が鮮やかに示されている。とともに私は、真実の親子の愛情のあり方にも、ひじょうに示唆するところが多いと思っている。なぜ病子が一番気になるのか。彼が、自立し活躍していうくえで、もっともハンディを背負っているからである。病は肉体的なものとは限らない。甘え、臆病、意志薄弱など精神的欠陥の場合もあろう。ともかく、親の愛情というものは、健全な者より”病子”がどう立派に、独り立ちしていくかに注がれるにちがいない。こうした人間の心は、親子関係を超えて、社会一般にも通ずることであろう。社会にも”病子”は多い。それをどう救うか----古来、宗教の存在意識はここにあったといってよい。
私の恩師はよく語ってくれた。
飢えた人に一片のパン、一袋の米を施すのもよいかもしれない。しかし、それだけでは、依存心を増すだけに終わりかねない。肝心なことは、それらの人々がどう自立し、生命力強く生き切っていけるかだ。宗教は、その点に鋭く目を向けなければならない、と。
桜の話が、親子の愛情の在り方にまで発展してしまった。しかし、両者はどこかで、根と根を通じあっているように思えてならない。自分たちだけが楽しみ”あとは野となれ山となれ”式エゴ。子供すべての自立心を育てようとせず、自分の子供だけの未来の願望のみに投影しようとするエゴ。近頃は、子供をあまりにも甘やかし、なんでも好きなものを与えて、わがまま放題に育てたあげく、結局は、子供の心が離れ去り、親が裏切られていく悲しき話を、あまりにも多く耳にすることが多い。
私には、その荒れ果てたわびしき心の世界が、美しき桜の花とはなぜか対照的な、匂う桜と紙の散乱と、二重映しになってしまうのである。

つれづれ随想より 抜粋



ううーーーん、ちょっと胸が痛む ^^;
どーだったかしら、私の子育て・・・
幼い時は、病院へ通う日々の多かったこと。
三人の子、それぞれ もれなく?^^; 入院経験あり。
珍しい病名のときもあり・・・
甘やかしてた・・?

自立する、自分の道は自分で決めなさい。
そのためにできることは応援するよ・・
そんなことを話し合った時もあったけど。
それぞれが、これからの難題と向かい合う時
親として、どう、子と向かい合うか・・

今回の説話は、実際のところ
甘やかし、と慈悲の境が、微妙で私には難問でした。

2014.12.25追記
仏法でいう「慈悲」=「勇気」
誰が一番苦しんでいるのか。
誰が一番、助けが必要であるか。
それは、今、眼前で苦しんでいるその人です。
仏法とは、その一番苦しんでいる人のためにあるのです。
その人に同苦する。
その人のことを自分と同じだと感じる、
その人の身になって行動する。
そこに慈悲が光ます。

より高い次元からみれば、末法という最も困難な時代、
堪え忍ぶべき苦しみに覆われた娑婆世界で懸命に生きている、
一切の人間に手を差し伸べ、苦悩を抜いていくことこそ、
仏法の根本目的にほかなりません。

苦悩の根本原因が尊厳性の否定であり、人間不信であるが故に、
尊厳性の自覚であり、人間への信頼と尊敬です。
(2015.1月大白蓮華より抜粋)

家族も同じ、悩みを話してもらえる関係を築くこと。
相手を知ること、そこから始まるのですね。
眼前の悩み苦しむ友のもとへ、勇気(慈悲)の行動を。
声をかける勇気。
んんん・・・最近起こっていること・・・
あの方、この方・・・に・・。 
今、一重の勇気を出して、声を発していきます!






お気づきの点がございましたら
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by sakura8sakura | 2014-09-22 15:49 | 説話
  

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